浅海 崇夫さんの記事

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義貞公便り電子版【その2】新田義貞公歴史講演会開催

2018年 06月07日 06:35

歴史講演会 
   新田義貞の子 義顕・義興・義宗3兄弟
     ~『太平記』その後の南朝方の動き~
  6月28日(木)  太田市金山城跡ガイダンス施設

 新田義貞公顕彰会(茂木晃会長)」の歴史講演会が、6月28日(木)午後2時30分より太田市金山城跡ガイダンス施設(金山町)で開かれる。同会の年度総会の後、幅広い郷土の歴史に詳しい「茂木同会会長」が▼『義貞の子、義顕・義興・義宗3兄弟~『太平記』その後の南朝方の動き~』と題して講演する。『会員だけでなく多くの市民に歴史の表舞台に閃光のように一時躍り出た新田一族の光と影を知って欲しい』と、同会では一般の席を特別に30人ほど用意する。問い合わせ=太田市商業観光課(電47-1833)または茂木会長(電話32-0746)浅海事務局長(32-3871)写真は、義興開基の威光寺(太田市由良町)。義宗・脇屋義治を祀る両新田神社(松山市河中町)。歌舞伎『神霊矢口之渡』歌川国貞画。

▼【新田義顕(よしあき)義貞の長男。
 元弘3年(1333)父の鎌倉幕府打倒の挙兵に参戦。建武の新政では越後守「武者所」一番頭人を務める。建武3年(1336)父義貞、叔父脇屋義助と共に越前国金ヶ崎城に入り、足利軍に包囲され籠城(金ヶ崎の戦い)。義貞らを杣山城に脱出させた後敗れ、尊良親王と共に自害を遂げる(享年20)。
▼【新田義興(よしおき)】 義貞の次男。
 建武4年(1337)奥州からの北畠顕家の西上に呼応して軍に加わり、関西に進出。父義貞の死後、越後、関東で戦い、「観応の擾乱」で鎌倉の奪還を目指して北条時行らとともに戦う。観応3年(1352)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵し足利方と戦い(武蔵野合戦)鎌倉を一時占拠するが、反撃にあって退去。正平13年(1358)再挙するも、足利方の江戸遠江守らに、多摩川の「矢口の渡し」で謀殺された(28歳)。義興の怨霊を鎮めようと、祀られたのが大田区の新田神社で、事件を扱った人形浄瑠璃『神霊矢口渡』は、今なお歌舞伎で演じられている。
▼【新田義宗(よしむね)】義貞の三男。
 建武新政後6歳で昇殿を許され、父義貞の死後、越後で成長したと伝わり、家督を継いだ。「観応の擾乱」で鎌倉の奪還を果たすが、武蔵国石浜、退いた笛吹峠でも敗北し、越後へ落ち延びた。その後も脇屋義治と共に越後で活動するが、正平23年(1368)、武蔵での河越直重らの武蔵平一揆に呼応して再挙したが、上野沼田荘で敗れ戦死した(37歳)。沼田市の白佐波神社に木像が伝わり、近くの雲谷寺に墓がある。また、義治とともに四国に落ち延びたという説があり、愛媛県松山市河中町には脇屋義治と一緒に祀られた『両新田神社』があり、境内には義宗が使っていた椿の杖から根が出た「新田椿」と呼ばれる大木が在る。

 秋に新田氏ゆかりの群馬県北部方面史蹟見学研修を開催
▼なお、同会では秋9月29日(土)に、講演に因んだ史跡見学研修を日帰りで実施する。見学地は 
①義貞公と家臣40人程の五輪塔と石塔群を祀る「善昌寺」参詣(桐生市新里町新川) 
②宮田山不動寺境内の洞窟内に安置される国指定重要文化財「石造不動明王立像」拝観(渋川市赤城町) 
③新田義宗の戦没した「うつぶしの森・白佐波神社」と墓とされる「雲谷寺の五輪塔」拝観(沼田市白沢町)
 ④戦国時代真田真幸、信幸(之)が入城し、江戸期土岐氏らが治めた沼田城址・公園見学。(沼田市西倉内町) 
⑤北条氏により陥落した真田の持ち城、名胡桃(なぐるみ)城跡見学(みなかみ町下津)。
▼同会では総会、講演会等で参加者を募る予定だ。

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